うまいものJAPAN UMAIMONO JAPAN
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   「うまいもの便り」 2008年3月

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 桃の節句も過ぎました。
あとは、桜の開花を待つのみ、サクラ・さくら・桜、花といえば
『桜』を指すくらい、日本人は桜が好きです。
桜の追っかけ≠自称する人たちは気象庁の開花予測が狂わないよう、
祈っていることでしょう。
例年通り、というのは、関東地方では3月の終り頃ということでしょうか。
いづれにしても、何かを待つ、というのは人の心を弾ませるものです。

 今月も村井弦斎の続篇をお楽しみいただければ。

   うまいものJAPAN うまいもの探究人 鈴木延枝


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■■うまいものとの出会い Vol.51

―食育の人「村井弦斎」のこと そのU―

 何故、村井弦斎は僅か2年程で小田原を離れてしまったのだろうか。
弦斎の住居跡を知りたい、そして小田原から平塚へ移住した訳を知りたくて、
まず、小田原へと向った。

 市内の最高の住宅地域、西海子小路(さいかち)辺りにあると私は推測していた。
昔、武家屋敷があった桜並木に面して、小田原近代文学館があり、
そこで何か手がかりが掴めるかもしれない。
しかし、文学館には、ほんの2、3冊の図書と
略歴が書かれたものが展示されていただけだった。
勇を興して、館長の男性に聞いてみた。
番地を示し、「この辺に村井弦斎という作家が住んでいたのだが、どこかご存知か」と。
「少し時間を下さい。」と館長は云い、調べて下さった。
何と文学館のはす向かいに、その場所はあった。
立派なうこん色の壁に囲まれたO家という大きな邸宅であった。
「いいところに住んでいたんだ!」と思わず驚嘆の溜息だ出てしまった。
当時、この附近には多くの作家が好んで住んでいたものだ。
北原白秋・北条秀司・北原武夫など、滄々たる作家達がその足跡を残している。

 では何故、小田原を捨てて平塚へ移ってしまったのだろうか。
弦斎が小田原に住んで間もなく、すぐ眼下にある相模湾が大荒れし、
この辺りまで高波に襲われることになる。
近年は、そのようなことはなく、私が知る限りでは、津波の記憶もない。
しかし、私の父の時代、明治の終りから昭和の初めにかけては
かなりの頻度で、高波があったらしい。
床まで水浸しになり、散々な目にあった弦斎は、
「もう、こんな所には住めん。」と云って、平塚へと居を移してしまったという。

 ほんの短い間であったが、小田原でも弦斎は地元の人との交流を深めていた。
「食道楽」秋の巻第185話に「鮎の味」という項がある。
この中で、弦斎は中川という人物の口を借りて、
鮎について驚く程のうんちくを述べている。

鮎の味は川によって違う。玉川の鮎よりは、相模川の鮎が上等だし、
相模川の鮎よりは、酒匂川の鮎が一層優っている。
又、同じ川でも場所によって味が違う。
酒匂川の鮎も本流よりは、河内川の支流でとれた鮎が美味だ。
何故場所によって味が違うかと云うと、鮎の食物たる珪藻の種類が違い、
又、その多い処と少ない処で違う・・・・と、まだまだ延々と続くのだ。
鮎一つとっても、この調子である。
食物や料理についての弦斎の博識や恐るべし、と感服した。

小田原市在住の郷土史家・故石井富之助氏は
「当時、小田原に小峯紋弥という名料理人がいて、
その人が度々村井家に行き、料理をしたり、料理法の話をしたりしていたそうだ。
食道楽≠フ中の、酒匂川や早川の鮎の話などは、
おそらく小峯紋弥から聞いたことであるかも知れない。」と書いている。
因みに、小峯紋弥とは、今も老舗の名産店として知られる「ちん里う」の先祖である。

「食道楽」という小説は、小田原にいる頃に書かれたもので、
空前のベストセラーであったことは、このような話からも推し量られる。
その印税は、月に当時の金額で3,000円、この印税を扱った某銀行の支店長に
「息子は是非、小説家にしたい」と云わしめた。
多分、今で云えば、月1億円近くになるのであろう。
その結果、弦斎が求めた平塚の土地は、1万6千4百坪余りの広大なものであった。

 弦斎は海岸に近く、富士山を眺望できるこの場所を「潮見台」と呼び、
その住まいを「対岳楼」と名付けた。
そして、そこに硫菜園や果樹園、山羊小舎や鶏舎も作った。
菜園には、パセリ・レタス・アスパラガス・トマト・アーティチョーク・西洋苺など
当時の日本人には馴染みのないものが多く、
家畜も名古屋コーチン・白色レグホン・チャボなど、
庶民には手の出ない珍種を飼育していた。
何しろ、岩崎家(三菱財閥)の専用農園で仕込まれた
園丁に管理させていたというのだからすごい。

弦斎は、この地で「食道楽」を地で行くような生活をし、
食文化発信の基地の役割を果たした。
ここに集まる人々のために、江戸時代から続く
浅草の八百善の8代目主人・栗山善四郎がやって来て、日本料理を供し、
西洋料理はアメリカ大使館の専属コックであった加藤桝太郎が
村井家お抱えコックとして腕をふるった。

 客人たちといえば、大隈重信をはじめ、後藤猛太郎(象二郎の長男)、
岩崎弥之助(弥太郎の弟)、矢野龍渓など政財界のお歴々ほか
鈴木三郎助(味の素の創始者)、小平浪平(日立製作所の創業者)、
増田義一(実業之日本社々長)などが常連であったという。
新渡戸稲造が外国人学生を引き連れてやって来たこともあったようだ。

又、後に森永製菓の創業者となる森永太一郎が、
アメリカから帰国して間もない頃、よく村井家を訪れ、マシュマロを作った。
子ども達は、太一郎のことを「マシマローのおじさん」と
親しみを込めて呼んでいたそうだ。
サロンに集うのは、こんな大物ぞろいの顔ぶれであったが、
弦斎は、その一人一人と深いかかわりを持っていたのだ。

例えば、小平浪平とは、旧知の間柄、
ある時、小平は自身の進路について迷い、弦斎に相談する。
弦斎の答えはこうだ。
「電気工業を専攻することこそ、自他を益する最上の道である」
後の日立製作所は、弦斎のこの一言によって起業されたのである。

 このことによっても推察されるように、
弦斎は、単なる小説家であるばかりでなく、優れた先見性を持つ人であった。
明治の時代にあって、女性の社会進出の必要性、恋愛や結婚観に対しても
進歩的な考え方を持っていたことは、その作品から窺い知ることができる。
日本国の在り方についても、こう述べている。
「日本を戦争で一流国家にするよりは、新動力、新交通機関、医学革新などで
世界の各国に尊敬されるような国になるべきだ。」

 今、私はJR平塚駅南口を出て、海へ向う道を折れた所にある
「村井弦斎公園」に立ち寄り、ひっそりとそびえる松林に往時を偲んでいる。
あの賑わいを見せたであろう、館は今はない。
弦斎の旧居は、昭和35年に平塚市が譲り受けたが、
43年にもらい火で焼失してしまった。
約100冊の著書、遺稿、蔵書、机、釣り道具など、
全てが灰塵に帰してしまった。
余りにも残念な不祥事だと唇がわななく。

憩いを求めて、ベンチに腰掛ける若い人達がちらほら、
その中に伊豆石に刻まれた文学碑が一つ。
「今や我家の食道楽趣味は、漸く田園趣味に進み行きぬ。
出でては、菜果の露滴んとするを摘み、
入っては珍膳を具えて富岳の清風に対す。
悠々たる清興、人生の幸福この中に在り。」 平塚対岳楼において 弦斎

そして、碑文に続く序文はこうだ。
「由来余として食道楽趣味に傾倒せしめしは余が夫人多嘉子の君の力多きに至る。
味覚の俊秀、調味の懇篤、君は実に我家のお登和嬢(作中の人物)たり。
小説食道楽の成りしも一半は、君の功に帰せざるべからず。」
弦斎居士の愛妻ぶり、ここに有りである。

さらに次の一節で、私はこの便りを閉じたい。
「食物を喫することを知りて、食物を味わうことを知らざれば、
供に料理のことを談ずるに足らず、人の此の世に生存するは、
毎日の食物を摂するが為なり。食物は生存の大本なるに、
世人の深く注意せざるは怪しむべし」
このことは、現在の日本の食の危さを看破しているように私には思える。
食育ということを軽々に口にする割に、
真剣に食のことを考えていないのは恐ろしいと。

駅から真っ直ぐに海へ通じる大通りの角にあった、
河野一郎(現衆議院議長、河野洋平氏のご尊父)邸が
村井邸の一角であったことも、今回初めて知った。
奇しきご縁が又々、重なって行く。
暮れなずむ公園を後にした私に、
相模灘の湿った潮風が、頬を温かくなぜてくれた。

   平成20年 弥生 鈴木延枝 記


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